昭和51年06月03日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 大変ややこしい御理解ですね。もう最後のところに至っては、いよいよ分からないような感じが致します。真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと、それが神になるのぞというとこなんか、本当に意味が分かりません。分からんと言う様にまぁ大変な事でございましょう。無駄のある筈はありませんからね御教えに。最後に神より上になるとは思うなというとこなんかは、どういうことかは分からない感じが致します。初めのところは段々分かります。おかげを受けてそれを実意丁寧に人に伝えていく話して行く。
 しかもそれが神心を持って人に伝えて行く、それがそういう生き方が、真の道を踏んで行くということだと言う訳ですね。ですから真の道というのは、自分でそういう手掛かりをもって開いて行くんだと言う様な事が分かります。昨日、信徒会から出ておりますあいよかけよというご本を読ませて頂いておりましたら、片岡次郎四郎先生の事が出ておりました。もう私はこの事だけでも、あのうこのご本の値打ちがあるように、皆んなが読むように言って皆さんに申しました事ですけれども。
 金光大神の片腕とまで言われたお方です。斎藤又三郎という笠岡の金光大神と、同時に片岡次郎四郎という金、光大神の神格を受けられた、というほどしのお徳を受けられた方のお話し。十三里の道を十二年間、毎月月参りをなさっておられます。たまには二回三回と参っておられる。ですから昔の事ですから乗り物がないですから、まぁ一晩泊まりでお参りをなさる訳なんです。お参りをなさると教祖様が、この次の月は何日の日に参れというお指図をなさった。
 十二年間お参りをされて、そのう教祖様がお示しになられた日にちが、差しさわりのない日が一辺だってなかったと言う事です。もうそれがよくせきな用事が出来るのだそうです。十二年間続いた。それでもまぁ教祖様のお言葉をいうなら守られた。今日は私はあのう一番初めに、『神』という字を頂いた。示すと書いて申すと書いてありますね、神という字は。示すと書いて申すとこれが神。いうならば神様が示し申して下さるということ。それを違わぬようにいわば実行すると言う事。
 神様が仰ったとおりしたばってんもうたんびに違うとる。いつも何かがある。一辺などは死ぬか生きるかと言った様なまぁ大変な、それこそ倒れ転びしながらその御本部へ参っておられる事があります。そういう時なんかあのう教祖様が良いおかげを頂いたと言っております。何が良いおかげかと言いたい所ですけれども、これがもし家でこんな病気をしとったら家族中の者が心配する。まぁ途中だったからその方だけで苦しいけれども、その方だけで人には迷惑をかけなかったと言う様な事を言っておられます。
 もうおかげとしての頂き方ですね。神様がね示して下さる事申して下さる事。それをいうならばその教えを実行すると言う事が信心です。宗教とはウ冠に示すそれを教えるのが宗教だという風に頂いた事があります。ここで皆さんが毎日朝のご理解を頂いて下さる、これはもういつの場合でも神様が示し申して下さる事と、私の信心とを聞いて頂くのです。片岡先生が十二年間そのように毎月お参りになられて十二年目に。これからはいうならば有り難い楽なお参りをさせると仰っておられます。
 いうならば十二年間神様の示し申して下さる事を実行された。それは実行したら有り難いことばっかりだったと言う事では決してない。いうならばこれでもかこれでもかと言う様なお試しと言いましょうか、信心の稽古というか、自分の心の使い方の稽古をさせてもらえるように思います。私共が以前御本部に月参りを致しておりましたね。あそこへそうですね、何年間というものはもう絶対必ずというほど、もう必ず汽車の中で事件が起こったんです。もうこりゃ不思議でした。
 あるお参りの時に帰りがけ博多を過ぎて鳥栖のへんに参りましたから、今度はおかげ頂いて何にもなかったのち言うたら、ほんな鳥栖を出てから事件が起こってですね、因縁つけられていろいろ問題があったんです。けれどもそれが最後でした。もうこれは不思議なくらい。やはりあの神様の働きというものは、そういうところを通り抜けさせて頂くと言う事がやはり有り難い。神様が実際のうえに示し表して下さる事を私共がどう受け、どう頂いていくかと言う事になるのです。
 いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞと言う事は、そういうこともあるのです。もうこれなどは絶対尽きぬおかげです。片岡次郎四郎先生が、十二年間教祖様の仰る事が右と言われれば、形の上においては左の様な事がずっと起こり続けてある。しかしそれが片岡次郎四郎先生が、教祖様の御信用を受けられた。その方はこの方の片腕だとまで言われる程しの御神徳を受けられた。おかげを受けると言う事と、御神徳を受ける御信用を受けると言う事が違う事が分かります。
 だからそう言う時所をいよいよ本気で大事にしなければいけない事が分かります。ただおかげおかげとおかげばかりを頂いて参りますと、私は今日一番最後に神より上になると思うなと言う様な事に成り兼ねないと思います。おかげを頂いてお徳をを受けずに、いうなら受けものを作らずにおかげを頂く。おかげを頂いたおかげでいうならば、神様のおかげである事も忘れて、自分が精進したから努力したからこれだけの事が出来たと言う様な思い方をする事は、そのまま神よりも上になった姿であります。
 昨日研修、昨日の御理解の研修をさせて頂いて、皆さんが発表しております時に、私はここでもう繰り返し頂きます事が『法然』と言う事を頂くんです。あの法然法然上人の法然ですね。法を然ると書いてありますね。自然の然という字、法は法則の法です。そしてね結局どういうことか、お道の信心で尽きぬおかげを話にしておくと仰る、その尽きぬおかげの頂けれる信心とはです、先ず法を覚える事です。天地の理法とも申します。天地の法則とも言います。教祖様は天地の道理と言うておられます。
 その天地の道理を覚えて天地の道理に従う。その法に従うた生き方を先ずは身に着けると言う事が、本当の意味においてのおかげの早道だと。おかげの早道は法をまずは知る事、それを実行する事と言う事になるのです。しかも合楽で神が申し示して下さる事。神様が示して下さる事、それを実行する以外にない、そこに受けものが出来て来るのです。その受けものに頂ける所のおかげを頂くと言う」事がです、今日の御理解で申しますと、神より上にならんで。
 いつもいわゆるおかげを落とさんで済む信心、と言う事になるのじゃないでしょうかね。昨日、お風呂に入ってまぁ何時もの様にお風呂の中で、一生懸命御祈念をさせて頂いておりましたら、頂く事がこんな『楽という字の白を書いて糸偏を両方に書いて下の方に+の字を書く、これに点々を打つと楽という字になる訳です。分かるでしょうか。楽という字の下の木の所がただ+という字になっとる訳です。点々がないのです。』お互いが楽という、またはそれをもっというと極めた楽を極楽という。
 いうならばそのう信心させて頂くおかげは、いわば極楽を目指す事である。その極楽こそがあの世へ続くからまた極楽に行く事が出来る。おかげを頂いた、いうならばお金もできた地位もできた、家も立派になった。おかげで健康でもある。という例えばおかげを受けただけではです、いうならば幸福の条件というものが、足ろうたと言う事になります。幸福の条件、いうならば楽という字の上だけ、白と書いて糸偏書いてそしてこの+を書いたという姿です。
 だから人間の本当の幸福というのはね、この木ですいわゆる心です。心が助からなければ、いかに幸福の条件がたろうておっても、楽と言う事でも極楽と言う事でもないのです。世の中にはそんな人が沢山ありますよ。信心をしなくっても沢山のお金を持ち地位を持ってそして健康である。いうなら幸福の条件がいうなら、足ろうたごたるけれどもです、肝心要の心。心はいつも我情我欲で一杯である。いうならば幸福の半分だけを頂いたと言う事になるのです。
 だからいうなば心だけがですよ、はぁ私は極楽と言うとっただけでも又いけんのです。だからそれは本当の事じゃない。心が本当に極楽にいっとるなら、それの条件であるところのです、幸せの条件の全てが、なら健康もお金も物も言うなら様々なものがそれに足ろうて、初めて極楽と言う事が言える。だから信心しておってもやっぱりおかげを先に、おかげが先行した人はこう言う事になるのじゃないでしょうか。楽という字の木は心とこう言う訳でしょ。
 ただ儲けに儲かる、おかげにおかけが思いが願いが成就すると言う事は、いうならばただ+に+を重ねて行っただけである。いうなら幸福の条件の半分は出来た。そこで先ず心の上にも心が極楽行きをしておると言う様に、なら有り難い勿体無いの心の状態。もうそれこそお徳を受ければ心配ないとおうせられる様な心の状態が、開けて来なければならんのだけれども、おかげが先行いたしますとです、それが中々難しいのです。人間はそこが悲しいところです。
 言うならば楽になるともう朝参りすら出来なくなって来るのです。所が自分の心が助かる言うならどう言う事かと言うと、法を覚えると言う事です法然です。法を体得させて頂いたら法にたごうた生き方は出来なくなって来るです。天地の大恩が分かり天地の道理が分かったら、天地の大恩に神恩報謝の心がおのずと湧いて来るでしょうし、天地の道理が分かったら道理に合わない生き方は、とても勿体のうして出来なくなって来るです。だからそれを先ずは体得する事が、先決だと言う事が皆さん分かるでしょう。
 法然を受けると言う事がです、先ずはだから本当の意味においてのおかげの早道である、それを先ずは実行すると言う事を、先にしなければいけないと言う事になりますね。私は尽きぬおかげを話にしておくと言う事は、そういう例えばね、天地が示して下さる御教えをです、自分のものにして体得してです、おかげを受けていくという生き方、そういうおかげをです、金光大神の教えた事を違わぬように人に伝えていく、神様から示し表わされた、いうならば神様が示し言うてきかせて下さった事をです。
 間違いなく人に伝えて行くと言うのが、是は真の道を踏んで行くと言う事にもなり、同時に神へのお礼ともなり、しかもそういうお礼の生き方こそがです、片岡次郎四郎先生じゃないけれども、只々神様の教えて頂く事は右と願えば左と言う事になって来たけれども、只々教祖様の教えを直々に頂くと言う事が、只々有り難い勿体無いと言う十二年間であった。そこに神様が示して下さる教えがいうなら血に肉になった所からです、いうならば金光大神とまで言われる程しの高徳な、御信心に進まれたと言う事であります。
 ここになった時に神より上になると思うなと言う事が、段々はっきり分かって来る様に思います。先ずはね信心がなからなければ、皆んなが神より上になった様な思いでおりますね。神があるやらないやらという人は、もういよいよ神様を踏んづけておるようなもんですよ。なら信心があってもただおかげにおかげを頂いたという人はです、必ず神より上になるような結果になって来るです。そげなことはなか、そげな神様より上になるなんて思わんて言うけれども。
 言う事する事はもう既に神様より上になった様な事に、結果においてなりますから、それがあの世にまで持って行けると言う事にはならんのです。おかげはこの世に置いて行くというが、それは大した事はないです。楽という字を言わば白という字を書いて糸偏を書いてそれに+しただけでは、楽にはならないと言う事。これに点々が打たれて言うなら木になって木と言う事なら心。そういう心を頂いて、心の中に法を間違いなく踏んでいけれる生き方を身に着けて、そこから心が喜びに満ち溢れて来る。
 徳を受ければ心配はないという安心のおかげが頂けれる。そういう心になった時に初めて楽であり、いうならば極楽と言う事になるのです。足ろはなければいけん。今日は私はこの六十一節をいつも頂くたびに、この御教えは本当にややこしい御教えだったといつも思うんです。けれどもなら神様が示して下さる、申して下さる御理解を頂くと、この御理解は素晴らしい事にいつの場合でもなるです。
 今日の御理解も例えば最後の所などは、いよいよ分からん感じがするんですけれども、今日の御理解を頂きよると、神より上になると言う事も、又成程そういう信心を神へ人へ伝えていくのが真の道を踏んで行くと言う事も、神のお礼になると言う事も、それが神になるのぞという意味の事も、段々お分かり頂いたと思うです。おぼろげながらでもそこを分からせて頂いて、成程先が今日皆さんにこれは決定的にですね、私が申しますならば先ず「おかげの早道は法をまずは知る事、覚える事それを実行する事」。
 これが本当の意味においてのおかげの早道であると言う事。おかげ頂いてから後からゆっくりてんなんてん言いよったら、絶対みんなが覚えやせんです。不思議です信心が進まんです。ですから今の程度のところでです、一ついよいよね天地の理法を体得させてもらい、しかもそれがです生にここで直に、神様から示し申して下さる事を聞いておるんですから間違いないです。それをいよいよ行の上に現して、尽きぬおかげをと仰る、尽きぬおかげにしていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。